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東京「あの場所は?」秘宝館

映画やテレビのロケ地、取り壊された建物、あの場所には何があったか、誰も価値を見出さないお宝グッズなどを紹介します。★拍手コメントはブログ管理人TOKUSABUROは拝見出来ますが、お返事が出来ません。なるべく記事下のコメント欄(CM)をご利用ください。匿名、URLなしでもコメント出来ます。(TOKUSABURO宛メールは、メールフォーム欄から送信してください)

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デビュー時59歳だったアルフィー180歳に

還暦アルフィー、3人合わせて180歳!桜井「米寿、白寿でも…」


 http://www.sanspo.com/geino/news/20150201/oth15020105040010-n1.html


 サンケイスポーツ


アルフィー桜井、赤ずくめで還暦ライブ


 http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20150201-1428842.html


 日刊スポーツ


桜井、還暦の赤スーツ!アルフィー2500本目ライブ


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高見沢俊彦

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ネトウヨも注目:THE ALFEEとサザン・オールスターズのつながりが明らかに!!

さえらさん(失礼しました。かおるんさんでした)から拍手コメントをいただきました。

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由紀さおりさんの動画を見つけてくださってありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ 全くうつってませんけど、ギターよく聞こえてるじゃないですか?これがお二人が奏でた音色だと思うと特別に聞こえます。(アルフィーバカ) 以前から気になってたんですが、高見沢さんて、本名は高見澤さんなんですか?

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世良譲のピアノ弾き語りは、当時TBSの「サウンドインS」などで有名だったので、NHKとしては、紅白歌合戦に入れたかったのでしょうね。
しかし、伊勢正三に「つかの間の雨」をギター演奏させ、世良譲にピアノを弾かせるわけにもいかず、ギターは由紀さおりと同じ田辺エージェンシーのアルフィー。でも3人はいらないということになってしまったのでしょう。


高見沢俊彦からの年賀はがきは、いずれも「高見沢俊彦」名でもらっていますが、いまだに未公開の封書は「高見澤俊彦」という署名になっています。

戸籍上の本名は「高見澤俊彦」だと思います。

「衝撃スクープ!! 高見沢俊彦 喀血事件 (映画「風立ちぬ」コラボ)結末編」で引用したサンケイスポーツのお父さんの訃報記事で「高見沢俊彦(53)の父で先月28日に老衰のため亡くなった元中学教師の高見澤榮さん(享年93)」となっています。

いわば芸名が「高見沢俊彦」で本名が「高見澤俊彦」という位置づけです。

昨年末のNHK紅白歌合戦で、美輪明宏が歌う曲は「愛の賛歌」と事前に報道されながら、当日テレビ欄では「愛の讃歌」と表記したのに気付いた方も多いはず。
マスコミには新聞用字用語というルールがあり「高嶺の花」を「高根の花」などと書きます。
「讃歌」「礼讃」もゴンベンは付けないのが記事における原則です。


由紀さおり「つかの間の雨」の第27回NHK紅白歌合戦は1976年大晦日の放送。
この写真の1年後だったのは、前回のブログ記事で判明したとおりです。

1976年大晦日から1977年元日にかけては、皆で伊豆に初日の出を見に行きました。

場所はMクン(写真中央)のお父さん所有の別荘。
おそらく、この別荘に大晦日のうちに行き、みんなでアルフィーが出るという紅白歌合戦を見たはずです。
MクンはD組のSクン(写真右)が進学先の大学で知り合ったバンド仲間。
同じ大学ながら学部は違い、藤沢と鎌倉に住んでいた湘南つながりで知り合った様子。

MクンとD組のSクンのバンドのコンサートにも当時から幾度か行きました。

当時はライブハウスなどというものはほとんどなく、いくつかのバンドがジョイントして公会堂などを借りて演奏していました。

湘南在住の青山学院大学のバンドと一緒にライブをしたりしていましたが、このバンドの男性ボーカルが茅ヶ崎の映画館の息子で桑田という、やたら自己顕示欲が強く、ほかのバンドが演奏している最中に手拍子しながらステージに上がって来たりする人物でした。

Mクン曰く、D組のSクンとこの青山学院大学のバンドの女性キーボード原さんは、二人ともキーボード担当ということで大変仲良しだったそうです。

MクンとD組のSクンは、いまだにアマチュアでコンサートを開いています。
おそらく、高見沢ともサザンともいまだに連絡を取り合っているはずですが、オイラには教えてくれません。プンスカ








拍手[20回]

アルフィーはデビュー直後にもNHK紅白歌合戦に出演していた。(懺悔篇)当時の新宿ルイードは今?

☆前回までのあらすじ☆

さて、ここで問題です。アルフィーは、今までNHK紅白歌合戦に何回出場したでしょう?
メリー・アンがヒットした1983年の一回だけ・・・と思っていませんか?
実はデビュー直後にも出演しています。
この話の続きを読みたいヒトは、迷わず「拍手する」ボタンをクリックしましょう。

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え~、高見沢俊彦たちと大晦日から元日にかけて山中湖へ初日の出を見に行ったのは、大晦日夕方にE組のSクンが電話したら高見沢が例の原宿のアパートにいて、前年1975年(昭和50年)は、その年大ヒットした「わが良き友よ」で出演したかまやつひろしさんのバックでNHK紅白歌合戦に出たけど、今年は空いているというので急遽、高見沢も加わることになった・・・と、思い込んでいました。

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さえらサンのコメント


それは・・・


え?それは由紀さおりさんのバックでギターを 演奏した日のことではありませんか? たしか三人とも行ったけど2人でいいって 言われちゃって、桜井さんだけ帰ったと言う・・・ しかもタキシード着用って言われたけど、借りて 行ってみたらひな壇の後、姿も映らなかったと いう・・・(´へ`) これはALFEEファンの間では結構有名なお話かも?

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誰ですか、アルフィーのファンに、そんなウソっぱちを教えるのは・・・と思いネット検索してみたら、なるほどWikipediaの1976年大晦日に放送された第27回NHK紅白歌合戦の項目にも、そう書いてあります。

1976年大晦日は「アルフィー高見沢俊彦 40年前デビュー時の衝撃過去」の写真を見ればわかるとおり、高見沢は山中湖にいたではありませんか・・・。

と思い、もう一度当時の記録を見直したら、1976年大晦日は伊豆に初日の出を見に行っていたことが判明しました。

聡明なアルフィー・ファンの皆さんなら、もうおわかりでしょう。「アルフィー高見沢俊彦 40年前デビュー時の衝撃過去」の写真は1977年元旦ではなく、その前年1976年元旦だったのですよ。


  ♪ 懺悔の値打もないほどに~



すると、1975年(昭和50年)NHK紅白歌合戦「わが良き友よ」は、どうなったかというと、そもそも、この年、かまやつひろしはNHK紅白には出演していません。
NHKがアナログ衛星放送を始めた頃に放送した「懐かしの紅白歌合戦」という番組をVTR録画したものが手元に残っており、その中に1975年の紅白歌合戦再放送があったので見直してみましたが、かまやつひろしサンは特別出演すらしていません。


  ♪ 懺悔の値打もないほどに~


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第27回NHK紅白歌合戦に出演した由紀さおりの曲は「つかの間の雨」。
中国語のサイトで完全な著作権法違反ですが、このサイトで動画がみられます。
世良譲のピアノ伴奏に合わせて由紀さおりが歌っていて、はたしてギターが必要だったのかとも思いますけど・・・。

この時の話は、2009年3月19日の読売新聞「タカミー王子の秘密『転機となった三億円事件』」という記事で高見沢俊彦本人が語っていることも、このブログ記事で判明しました。
まったく、余計なことしゃべりやがって・・・。プンプン(八つ当たり)


フムフム、アルフィーは「1975年12月の「府中捕物控」発売中止をきっかけにレコード会社から離れた」のですか・・・。すると、「アルフィー高見沢俊彦 40年前デビュー時の衝撃過去」の写真は「府中捕物控」発売中止直後の写真なのですな。どうです、スゴイでしょ。

今回、過去の記録を漁っていて、1975年12月10日に「府中捕物控」レコード発売予定だったアルフィーのコンサートに出向いていることを確認しました。

日付は1975年12月1日。場所は新宿ルイード。
現在の新宿ルイードは「RUIDO.K4」という名前で歌舞伎町にあるようですが、当時は三越の横を入ったところにありました。
1986年の地図を見たところ、当時はまだ三越の横にあります。
現在もある新宿KAWANO(新宿区新宿3丁目26-18)の、確か2階だったと思います。

このコンサートを見に行こうと皆に声を掛けたのは当然E組のSクン。
男性客はわたしたちだけで、ほかは皆10代と思われる女性たちばかり。
お母さん同伴で来ていた女の子が、終わった後に高見沢に花束を渡したのをおぼえています。


19831130

  
1983年11月30日 朝日新聞朝刊


「メリー・アン」のヒットで、1983年(昭和58年)第34回NHK紅白歌合戦にアルフィーが出た時、実は以前にもバックスで出たことがあるという逸話を番組内でもアナウンサーが紹介したようにおぼえています。当時の映像はこのサイトで見られます。
冒頭、白組司会者の鈴木健二さんが映るけど、鈴木健二さんがこの逸話を披露したのでしたっけ?曲の間奏の合間にエピソードが挟まれたような気もします。



拍手[29回]

アルフィーはデビュー直後にもNHK紅白歌合戦に出演していた。(前篇)

え~ 本日はアルフィーデビュー40周年の2014年12月31日でございます。

今年はデビュー40周年で、しこたま稼いだので来年の住民税はタップリ課税されるでしょう。ニンマリ

さて、ここで問題です。アルフィーは、今までNHK紅白歌合戦に何回出場したでしょう?

メリー・アンがヒットした1983年の一回だけ・・・と思っていませんか?

実はデビュー直後にも出演しています。

この話の続きを読みたいヒトは、迷わず「拍手する」ボタンをクリックしましょう。









拍手[52回]

アルフィー高見沢俊彦・桜井賢は夏目漱石「三四郎」“偉大なる暗闇”の孫弟子だった(後編)

前回までのあらすじ 


渋谷の鶯谷町だったかに住んでいて、朝、通学電車で一緒になることもあったT先生。
はにかみ屋で学外で会っても知らんぷり。口調がちゃきちゃきの東京言葉だが普段は温厚。かなり含羞の人だった。
ところが、突然怒り出すことがある。
オマエラ、ヘルメットにゲバ棒担いで「体制」がどうのと演説しているが「体制」って誰が作った言葉か知ってるのか? 誰々がナントカ(書物の名前)で「体制」と訳したのが最初だ。マルクスが「資本論」で最初にこの言葉を使ったのは、第ナン章の何ページだ。わかってるのかコノヤロと怒鳴りだしたのを覚えています。
(今調べたら井上哲次郎が「哲学字彙」で訳したのが最初らしい)
今はどうか知らないけれど、当時の明治学院は南側に校門がひとつあるだけで高校そして大学。
高校の前を通ってヘルメットにゲバ棒担いで「体制」がどうのと演説した後、デモ行進して大学へ向かうのは大学生たちで、高校生もオマエラやコノヤロに含めて欲しくなかったんですけど・・・。


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ワタシたちの高校大学時代は1970年代。旧制の高校・大学を出た先生たちが、まだ沢山いた。
中でも大正ヒトケタ生まれの先生方は、T先生のように授業中前触れもなく突然怒り出す特性があった。
あれはナゼなんだろう、生まれ育った時代に起因するのかなとずっと思っていました。


段々と、その理由がわかってきたのが10年ちょっと前から。
こちらは同世代だと思っている20代30代の洟垂れ共が笑ってくれるだろう、突っ込み入れてくれるだろうと思ってクスグリ入れた話がスルーしてしまうことが増えたのですわい。
洟垂れ共は、ここで笑っては失礼ではないかと躊躇しているか、世代を超えたクスグリがまったく意味不明か、あるいは面倒だから無視したのどれかだろうけれど、初老期の元オニイサンたちは居場所がなくなり、突然、暴走オニイサンになってしまうのですな。


今度の衆議院選挙投票日は12月14日。赤穂浪士の討ち入りの日。
今より、もっと洟垂れの青二才だった頃、吉良上野介って、ものすごく悪い意地悪ジイサンだと思っていたけど、最近は吉良さんにかなり同情してます。


松の廊下の刃傷沙汰の時、吉良上野介はアルフィーよりひとつ若い59歳でした。


浅野内匠頭が朝鮮通信使饗応役は一度やったことあるから吉良上野介のアドバイス受けなくても出来るもんねという振る舞いをしたように感じた吉良上野介は居場所がなくなり疎外感を感じてしまったのですよね。


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大学生がヘルメット被りゲバ棒振り回した大学紛争は昭和42年(1967年)秋に始まり翌年がピーク。1970年代に入ると内ゲバ化しました。
この時期に警察庁次長・長官を務めたのが、後に国会議員になった後藤田正晴さん。
当時、後藤田さんは新聞記者との懇談で冗談めかして「東大を解体すると言うんなら、どうぞおやんなさいだが、水戸高校に手出ししたら只じゃ置かない」と語ったという話があります。
後藤田さんは旧制水戸高校・東京帝国大学出身。
旧制高校・大学出身者にとって、高校はそれほど思い出深いものだったらしい。


現在はかなり設置基準が緩やかになったようですが、戦後の新制大学には入学して最初の二年間「教養課程」なるものがありました。
教養課程は「豊かかつ柔軟な人間性の涵養と、学問の世界に踏み込むにあたり広く深い見識を身に付けることで、専門課程や大学院等で学ぶための基本的素養・能力を養うことを目的とする」なんてのは、もちろん建前で、自分たちがお世話になった旧制高校の先生方が失業しないよう、旧制高校出身者たちが新制大学の中に組み込んだのが大学教養課程の正体です。


早い話、現在の東京大学は旧制一高の跡地駒場にある教養学部に入学し文科・理科でそれぞれⅠ類Ⅱ類Ⅲ類に別れ、その後、専門課程に進みますが、あのⅠ類Ⅱ類Ⅲ類というのは、旧制高校の第一外国語の別、甲類(英語)乙類(ドイツ語)丙類(フランス語)が形骸化しⅠ類Ⅱ類Ⅲ類として残ったものです。


これって、新制高校出身者にとっては、せっかく受験勉強しても大学の教養課程でまた2年間高校の授業のやり直しということになり、大学での学習意欲を失わせることになってしまっていたのですな。


いまだ中身を公開していない高見沢からの封書には、大学には入ったものの勉強する気が失せてしまったという内容が綴られています。
先日、いまだに高見沢と交流のあるD組のS君を通じ密かに打診したところ、1000拍手もあれば封書の内容も公開して構わないとのことでした。(真っ赤なウソ) 


さぁ、読者の皆さん、進んで拍手しませう。


 


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拍手[20回]

アルフィー高見沢俊彦・桜井賢は夏目漱石「三四郎」“偉大なる暗闇”の孫弟子だった(中編)

追伸の拍手コメントをいただきました。


「ベルシバでフォークを投げられたのは桜井さんのコメントだったのですが、大学入学後、ギターを弾きながらみんなで練習していたら…と言ってましたよ」。


なるほど、そうなのですか・・・おそらく午後のベルシバですね。
ベルシバは大学生の学生ホール的位置づけ。
高校生は昼休みまでで午後の様子は知りません。
今は横浜の戸塚にも校舎があるようですが、当時の明治学院大学は1.2年生も含め白金の校舎しかありませんでした。
午前中は、まだベルシバに大学生は多くなく、だから高校生も混じって利用していました。
午前中の半分くらい寝ぼけていて静かで楽器を弾いたりする雰囲気ではありませんでした。
午後は高校生が知らない雰囲気があったのですね。


「もう時効ということで、三宅さんのお話も聞きたい所ですが、すでに一般の方ですからNGですよね。 学生名簿が出た時に、F組の三宅さんの名前を見つけてドキッとしたファンは結構いたと思いますよ〜(私もその一人) 今だに検索ワードで出て来たりしますもん」。


高校三年間はクラス変えナシ。1年生から2年生になる時、ほかのクラスは高校新館に移りましたが、ワタシのクラスだけは3号館という別の建物。そのため他のクラスとの交流はさらに狭まり、残念ながらワタシは「F組の三宅さん」の記憶がまったく残っていません。
高校3年生の時、レコードデビューした同学年の生徒たちがいるという話を聞いたようなおぼえもありますが曖昧です。今度、当時の事情通E組のSクンに聞いておきます。


 


高校を卒業してから40年以上経過してしまったので当然なのですが、当時はまだ旧制の学校を卒業した先生が少なからずいました。
習ったことはありませんが、数学のK先生は旧制松本高校で北杜夫と同じ寮生活。大学は京都大学出身でした。
礼拝の時間に、月一回くらいアッセンブリーという耶蘇とは関係ない話を先生方が持ち回りでする機会がありました。
普段は敬虔なアニミズム信者ゆえ礼拝の時間はベルシバでラーメンを食べていたワタシも、今回のアッセンブリーはK先生が松本高校時代の話をするらしいと聞き、一日だけラーメンを絶食しました。当時、北杜夫はかなりのベストセラー作家でしたから。
予想に反しK先生の話は先輩の辻邦生の思い出でした。辻邦生という作家はこの時、初めて知りました。


 


高校3年時に週2単位「政治経済」がありました。
今もそうかも知れませんが大学入試で選択科目に政治経済を選択する高校生は殆どいません。
高校3年の全クラスの「政治経済」担当はT先生。
この先生、担任も持たず3年生7クラスの「政治経済」14コマだけを担当していました。
当時の学校の先生は、皆、背広にネクタイというのが普通でしたが、この先生はいつも替え上着でノータイ。
ほかの先生たちも幾分距離を置いている様子のT先生、旧制一高(現在の東大教養学部)・東京帝国大学法学部出身という話は3年生になる以前から聞いていました。
授業は「政治経済」の教科書に準拠した問題集を用意させ、教科書と問題集の説明だけ。
試験問題も問題集のページ範囲を試験範囲に指定し、必ずそこから出題されました。


皆、自分のことをアカだとか言うけどと一度語ったことがあったから、戦前のマルクスボーイか終戦直後のレッドパージ対象者だったのかも知れませんけれど「政治経済」担当でありながら特定の政治思想に偏った言動をすることもありませんでした。


幾度も繰り返し語っていたのは、政治経済というけど、まず経済があり政治が生まれたという話。


一度、自分の高校時代のドイツ語の先生は、最初の授業冒頭で筆記体で判別し難い文字の違いを教え、後は次から次へと生徒にドイツ語の教科書を訳させるだけだったという逸話を語ったことがありました。
おそらく、勉強は自分でするものだ。授業に頼るなと言いたかったのだと思います。
また別の機会に、高校時代、教科書への書き込みは絶対許されなかったとも言っていました。


当時は、馬の耳に念仏、TOKUSABUROさんの耳に礼拝程度に聞いていたけど、この旧制一高の先生の逸話は、夏目漱石「三四郎」「偉大なる暗闇」廣田先生のモデルと言われる旧制一高独逸語教授岩元禎先生の話と重なるのですよ。




T先生は、私達が卒業した年度で定年退職したはず。タカミー・パパよりイッコ上になる勘定で、ご健在だったら、すでに百歳を超えている。


渋谷の鶯谷町だったかに住んでいて、朝、通学電車で一緒になることもあったT先生。
はにかみ屋で学外で会っても知らんぷり。口調がちゃきちゃきの東京言葉だが普段は温厚。かなり含羞の人だった。


ところが、突然怒り出すことがある。
オマエラ、ヘルメットにゲバ棒担いで「体制」がどうのと演説しているが「体制」って誰が作った言葉か知ってるのか? 誰々がナントカ(書物の名前)で「体制」と訳したのが最初だ。マルクスが「資本論」で最初にこの言葉を使ったのは、第ナン章の何ページだ。わかってるのかコノヤロと怒鳴りだしたのを覚えています。
(今調べたら井上哲次郎が「哲学字彙」で訳したのが最初らしい)


今はどうか知らないけれど、当時の明治学院は南側に校門がひとつあるだけで高校そして大学。
高校の前を通ってヘルメットにゲバ棒担いで「体制」がどうのと演説した後、デモ行進して大学へ向かうのは大学生たちで、高校生もオマエラやコノヤロに含めて欲しくなかったんですけど・・・。


成績優秀で大学は無試験で入学したアルフィー高見沢俊彦クン。
大学に入学したものの、途端に勉学意欲が薄れてしまう・・・。
その原因は、実は旧制高校が變化(へんげ)した大学教養課程にあった・・・。
さぁ、続きを読みたいヒトは拍手ボタンを押しましょう!!


 


 写真はベルシバでラーメンを食べるTOKUSABUROさん。


拍手[46回]

アルフィー高見沢俊彦・桜井賢は夏目漱石「三四郎」“偉大なる暗闇”の孫弟子だった(前編)

先日の明治学院ベルシバ記事に、拍手コメントでいつも応援してくださる常連さんから、コメントをいただきました。

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待ってました! なんか、青春の香りをいっぱい♥︎感じました。 高見沢さんがベルシバでアイスを落として「あー!」と大声だしたら新しいのくれた、とか、ベルシバで練習してたら「うるさい‼︎」と体育会の連中にフォークやお皿?を投げられたとかいうエピソードを聞いたことがあります

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あれまァ・・・高見沢はベルシバでアイスクリームなんぞを買っていたのですか!!

これ、高校時代ではなく大学に入ってからの話です。オソラク

改めて「ベルシバ」をネット検索したらところ、ベルシバの敷地は現在は法科大学院になっているのですね。大きさも位置関係も重なります。

入って右側に喫茶カウンターがあり、喫茶以外の食べ物は、このカウンター横で食券を買い、注文ごとに色分けされたプラスチック札を受け取り、右手奥にある厨房窓口に置き、セルフサービスで受け取る方式でした。

大学は他校へ行ったので「ベルシバ」は高校3年間しか知らないワタシは、ベルシバでアイスクリームなんぞ食べた記憶がありません。

おそらく喫茶カウンターにコーヒー紅茶などと共にアイスクリームもあったのでしょう。
だけど、高校生の頃はアイスクリームより食い気だったはず。
高校生の分際で喫茶カウンターなんぞ利用した記憶がありません。




「体育会の連中にフォークやお皿?を投げられた」??

ウ~ム・・・これも、ちょっと引っかかりますなァ。

確かに、高校時代の高見沢は、皆で話していると周りの意見をじっくり聞き、最後に意見を述べる温厚なタイプ・・・。

でも、ファンの皆さん騙されてはイケマセン。
中学時代は体育会系バスケット・ボール部キャプテンだったでしょ。

秋に体育祭というのがあり、クラス対抗で色々な競技をしました。
高校2年の体育祭。高見沢がD組のバスケット・ボールに出るというので見てました。


カップ下でのリバウンド・ボールを取ろうとした時、相手チームの選手が体当たりし妨害したらしい。
これを元キャプテンとしては、とてつもなくアン・フェアな行為と受け止めた様子。
血相を変え、相手選手を怒鳴りつけ、同じチームのD組仲間が割って入ったのを見たことがあります。

アルフィーファンのみなさん
高見沢俊彦は営業用に現在のスタイルをやってますけど、結構「体育会系」でっせ。


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同じ拍手コメントを下さった方から、10月9日にも拍手コメントを戴いていたのを見落としていました。(先日、忍者ブログからのメールで知りましたが、拍手コメント機能に障害が発生していたそうです)

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非常勤講師のはなしも気になります。記事UP待ってますよ〜!

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これって、ゲイっぽい非常勤講師が高見沢を贔屓にしていたという話ですね?
この先生、よその大学の大学院博士課程に在籍しながら、ワタシたちの高校2年3年時に非常勤講師をしていました。

ワタシも、この非常勤講師の先生・・・美少年ばかり贔屓し高い成績つけるからアヤシイと思っていましたが、やはり、その傾向があったのですね。

ワタシ、この先生の科目、満点以外もらった記憶がありません。 ウム ??


さてさて・・・アルフィー高見沢俊彦・桜井賢と夏目漱石との関係は如何に?? (後半につづく)

拍手が少ないと「後半」がアップされません。
夏目漱石研究者の方々も進んで「拍手」しましょう。ケケケ


なお、先日来、あらたな方より「拍手コメント」を沢山の記事に戴いております。
ありがとうございます。

http://www.cinematoday.jp/page/N0068007

 


拍手[31回]

アルフィー高見沢俊彦・桜井賢、明治学院高校在学時の映画ロケと「ベルシバ」


ちょっと時間が経過してしまいましたが、夏にチャンネルNECOで放送していた日活映画「戦争と人間」。

以前も触れましたが、この映画のロケーション撮影で、アルフィー高見沢俊彦・桜井賢が高校に在籍した当時の明治学院が使われています。





左側の白い建物が、大正3年に建てられた高校の3号館(現存せず)。
中央のチャペルは今も残っていますね。




校舎が映画「戦争と人間」のロケーション撮影で使われたと教えてくれたのは、映画好きな現代国語の先生でした。
この先生は昭和47年(1972年)3月で退職し、私立武蔵高校に移ったので映画「戦争と人間」三部作のうち、1971年以前に作られた第一部か第二部だったはずだと思い、夏にチャンネルNECOを見たら、第二部「愛と悲しみの山河」に出てきました。

ただし、ずいぶん以前にテレビ放送で見たら、関東軍本部として夜間撮影で入り口側から3号館が写っていたような気がします。記憶違いかな? それとも別の場面でも使われていたのでしょうか??

第二部「愛と悲しみの山河」で映し出された関東軍本部は、いわゆる帝冠式の建物模型でした。




港で日本からやってきた佐久間良子を出迎えた北大路欣也が、明治学院の正門からの上り坂を市内に見立てて馬車で通ります。




すぐにロケ地は千鳥ヶ淵の英国大使館横に変わりますけど。







「明治学院 ベルシバ」「アルフィー ベルシバ」などの検索が結構あるので、今回はベルシバのお話など。 

みんな「ベルシバ」と呼んでいましたが「ベール・シバ」が本来の名。シバは出エジプト記「シバの女王」のシバだと書いてあったと思いますが、ベールはシバの女王がつけているベール(ヒジャーブ)ではなかったような気がします。入り口に名前の由来が書いてあったけど、詳しくはおぼえていません。

下の「構内案内」図の「9.学生食堂」がベルシバ。
ただし、建物の大きさは、道路に面してもっと広く「8.インブリー館」の倍程度の細長い建物でした。
この「構内案内」は1971年の大学「白金祭」(学園祭)パンフレットから採っています。
「5.高校校舎」となっている建物は、当時の高校食堂です。

この高校食堂とベルシバは、同じ外注先が運営していました。
しかしながら、高校食堂は昼休みしか利用はないし、当然不採算だったらしく明らかに手抜き。
1970年と71年の梅雨時に二年続けて食中毒事故を起こし営業停止になりました。

さらに今は芝生になっているけど、当時は正門右側が高校の体育グラウンド。
高校食堂は、砂ぼこりも凄かった。
結局、高校生も高校食堂は、あまり利用せず弁当持参かベルシバへ行っていました。

ベルシバは大学の施設という位置づけで、高校生は利用してはいけないことになってましたが、高校生の利用もほぼ黙認でした。

大学の食堂は「18.グリーンホール」にある大学生協の中にもありましたが、高校からは離れているので、さすがに高校生はグリーンホールまでは滅多に行かなかったはずです。

下の写真は「14・大学校舎」から南側(正門)に向けて撮影したはず。
左端の「13.大学校舎」と木造の建物(「8.インブリー館」)の間、地面がやや低くなっているところが「ベルシバ」の入り口。建物手前に自動販売機とテラス席がありました。

「14・大学校舎」前のグラウンドは、午前中高校、午後は大学が使うグラウンド。
元はここに宣教師住宅があり、明治学院はここまで。現在、大学があるところは戦前は海軍墓地だったそうです(海軍墓地は規模を縮小し、現在も大学北側に残っています)

高輪消防署の横にグランドがあり、大学の体育授業はそこでやるという話は当時聞いていましたが、「構内案内」をみると「北グランド」というのも大学にはあったのですね。
いずれも現在はマンションになっている場所。

「14・大学校舎」前のグラウンドも正門脇にあった高校グランドもベルシバも現在はありません。


明治学院1971校内案内図


明治学院1971

この写真、左上の建物は高輪プリンスホテルですよね。
まだまだ、東京の空は広かった。



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