映画やテレビのロケ地、取り壊された建物、あの場所には何があったか、誰も価値を見出さないお宝グッズなどを紹介します。★拍手コメントはブログ管理人TOKUSABUROは拝見出来ますが、お返事が出来ません。なるべく記事下のコメント欄(CM)をご利用ください。匿名、URLなしでもコメント出来ます。(TOKUSABURO宛メールは、メールフォーム欄から送信してください)
追伸の拍手コメントをいただきました。
「ベルシバでフォークを投げられたのは桜井さんのコメントだったのですが、大学入学後、ギターを弾きながらみんなで練習していたら…と言ってましたよ」。
なるほど、そうなのですか・・・おそらく午後のベルシバですね。
ベルシバは大学生の学生ホール的位置づけ。
高校生は昼休みまでで午後の様子は知りません。
今は横浜の戸塚にも校舎があるようですが、当時の明治学院大学は1.2年生も含め白金の校舎しかありませんでした。
午前中は、まだベルシバに大学生は多くなく、だから高校生も混じって利用していました。
午前中の半分くらい寝ぼけていて静かで楽器を弾いたりする雰囲気ではありませんでした。
午後は高校生が知らない雰囲気があったのですね。
「もう時効ということで、三宅さんのお話も聞きたい所ですが、すでに一般の方ですからNGですよね。 学生名簿が出た時に、F組の三宅さんの名前を見つけてドキッとしたファンは結構いたと思いますよ〜(私もその一人) 今だに検索ワードで出て来たりしますもん」。
高校三年間はクラス変えナシ。1年生から2年生になる時、ほかのクラスは高校新館に移りましたが、ワタシのクラスだけは3号館という別の建物。そのため他のクラスとの交流はさらに狭まり、残念ながらワタシは「F組の三宅さん」の記憶がまったく残っていません。
高校3年生の時、レコードデビューした同学年の生徒たちがいるという話を聞いたようなおぼえもありますが曖昧です。今度、当時の事情通E組のSクンに聞いておきます。
高校を卒業してから40年以上経過してしまったので当然なのですが、当時はまだ旧制の学校を卒業した先生が少なからずいました。
習ったことはありませんが、数学のK先生は旧制松本高校で北杜夫と同じ寮生活。大学は京都大学出身でした。
礼拝の時間に、月一回くらいアッセンブリーという耶蘇とは関係ない話を先生方が持ち回りでする機会がありました。
普段は敬虔なアニミズム信者ゆえ礼拝の時間はベルシバでラーメンを食べていたワタシも、今回のアッセンブリーはK先生が松本高校時代の話をするらしいと聞き、一日だけラーメンを絶食しました。当時、北杜夫はかなりのベストセラー作家でしたから。
予想に反しK先生の話は先輩の辻邦生の思い出でした。辻邦生という作家はこの時、初めて知りました。
高校3年時に週2単位「政治経済」がありました。
今もそうかも知れませんが大学入試で選択科目に政治経済を選択する高校生は殆どいません。
高校3年の全クラスの「政治経済」担当はT先生。
この先生、担任も持たず3年生7クラスの「政治経済」14コマだけを担当していました。
当時の学校の先生は、皆、背広にネクタイというのが普通でしたが、この先生はいつも替え上着でノータイ。
ほかの先生たちも幾分距離を置いている様子のT先生、旧制一高(現在の東大教養学部)・東京帝国大学法学部出身という話は3年生になる以前から聞いていました。
授業は「政治経済」の教科書に準拠した問題集を用意させ、教科書と問題集の説明だけ。
試験問題も問題集のページ範囲を試験範囲に指定し、必ずそこから出題されました。
皆、自分のことをアカだとか言うけどと一度語ったことがあったから、戦前のマルクスボーイか終戦直後のレッドパージ対象者だったのかも知れませんけれど「政治経済」担当でありながら特定の政治思想に偏った言動をすることもありませんでした。
幾度も繰り返し語っていたのは、政治経済というけど、まず経済があり政治が生まれたという話。
一度、自分の高校時代のドイツ語の先生は、最初の授業冒頭で筆記体で判別し難い文字の違いを教え、後は次から次へと生徒にドイツ語の教科書を訳させるだけだったという逸話を語ったことがありました。
おそらく、勉強は自分でするものだ。授業に頼るなと言いたかったのだと思います。
また別の機会に、高校時代、教科書への書き込みは絶対許されなかったとも言っていました。
当時は、馬の耳に念仏、TOKUSABUROさんの耳に礼拝程度に聞いていたけど、この旧制一高の先生の逸話は、夏目漱石「三四郎」「偉大なる暗闇」廣田先生のモデルと言われる旧制一高独逸語教授岩元禎先生の話と重なるのですよ。
T先生は、私達が卒業した年度で定年退職したはず。タカミー・パパよりイッコ上になる勘定で、ご健在だったら、すでに百歳を超えている。
渋谷の鶯谷町だったかに住んでいて、朝、通学電車で一緒になることもあったT先生。
はにかみ屋で学外で会っても知らんぷり。口調がちゃきちゃきの東京言葉だが普段は温厚。かなり含羞の人だった。
ところが、突然怒り出すことがある。
オマエラ、ヘルメットにゲバ棒担いで「体制」がどうのと演説しているが「体制」って誰が作った言葉か知ってるのか? 誰々がナントカ(書物の名前)で「体制」と訳したのが最初だ。マルクスが「資本論」で最初にこの言葉を使ったのは、第ナン章の何ページだ。わかってるのかコノヤロと怒鳴りだしたのを覚えています。
(今調べたら井上哲次郎が「哲学字彙」で訳したのが最初らしい)
今はどうか知らないけれど、当時の明治学院は南側に校門がひとつあるだけで高校そして大学。
高校の前を通ってヘルメットにゲバ棒担いで「体制」がどうのと演説した後、デモ行進して大学へ向かうのは大学生たちで、高校生もオマエラやコノヤロに含めて欲しくなかったんですけど・・・。
成績優秀で大学は無試験で入学したアルフィー高見沢俊彦クン。
大学に入学したものの、途端に勉学意欲が薄れてしまう・・・。
その原因は、実は旧制高校が變化(へんげ)した大学教養課程にあった・・・。
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写真はベルシバでラーメンを食べるTOKUSABUROさん。
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