映画やテレビのロケ地、取り壊された建物、あの場所には何があったか、誰も価値を見出さないお宝グッズなどを紹介します。★拍手コメントはブログ管理人TOKUSABUROは拝見出来ますが、お返事が出来ません。なるべく記事下のコメント欄(CM)をご利用ください。匿名、URLなしでもコメント出来ます。(TOKUSABURO宛メールは、メールフォーム欄から送信してください)
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映画「ニッポン無責任時代」の最終場面は、横浜プリンスホテルの屋外披露宴シーンです。
この場所は、社長シリーズや若大将シリーズでも使われています。
しかし、昭和40年代になると映画ロケは行われなくなります。
理由は容易に推察出来ます。
磯子駅の海側が埋め立てられ、高さ60メートルの崖上にある横浜プリンスホテル庭園から撮影しても、遠くの海の手前に工場や発電所の風景が映るようになってしまったからです。
東京オリンピックの翌年、昭和40年という年は戦後20年に当たりますが、戦後日本経済史の上でも、この昭和39年~40年は大きな転機になります。
昭和39年のオリンピックに向け高速道路整備など公共事業が続きましたが、翌昭和40年はその反動で「40年不況」という不景気になります。山一證券への日銀特融が行われたのも、この時です。
当時の日本は、まだ資本ストックが薄くケインズ経済学の有効需要政策が効き目があったのですね。
東京オリンピックの時、実務を取り仕切った副知事は鈴木俊一さん。昭和45年の大阪万博の事務総長になり、昭和54年に都知事になります。多摩モノレール建設や臨海副都心の世界都市博覧会開催を推進しますが、東京五輪の成功体験から生涯ケインジアンだったと思います。
東海道新幹線は世界銀行の融資で作られたと良くいわれますが、昭和39年は戦後アメリカから日本への有償援助が完了した年でもありました。余剰農産物協定もこの年で終わり、学校給食の脱脂粉乳も米国産のものは、この年度限りとなります。
「40年不況」打開のため、昭和40年11月に政府は戦後初の赤字国債発行を決定し、国会審議を経て翌年1月に2590億円の赤字国債が発行されました。
「東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン」では12月に発売が予定されている「日本一のゴリガン男」の「ゴリガン」は、40年不況時に盛んに使われた言葉「(経営)合理化案」をもじり青島幸男が作った造語です。
横浜プリンスホテルの跡地は「ブリリアシティ横浜磯子」というマンションが出来ました。
現在も、まだ分譲中のようです。
http://www.yokohama-peak.jp/?iad=adwords
横浜プリンスホテル
http://web1.nazca.co.jp/fuk200260/page003.html
横浜プリンスホテル跡地、マンションなど首都圏最大規模の開発起工/神奈川
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110190032/
ラストシーン結婚披露宴の前段、石橋エータローが女装して藤山陽子の身代わりとなり、お見合いをぶち壊す場面も、同じく横浜プリンスホテルがロケ地に使われています。同じ日に、ふたつの場面をロケーション撮影したと思います。
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