デビット・ボウイさんが亡くなりましたなぁ。
高見沢俊彦が高校に入学した1970年頃から日本でも有名になった人でした。
少し遅れてレッド・ツェッペリン、エルトン・ジョンというような並びでした。
当時の明治学院高校は、一年生は音楽、二年生以降は音楽か美術を選択できるようになっていました。音楽・美術共に専任の先生はいなくて共に非常勤講師の先生でした。
一年生の音楽の先生は70歳はすでに越えていただろう。旧制一高から東京音楽学校へ進んだ異色の経歴の持ち主というのは他の先生から教えてもらった。KFCのカーネル・サンダースみたいな風貌だったが笑顔はほとんど見せず、大学の授業並みに結構授業時間に遅れて音楽室にやってくる。そして、まずはお話。ドイツ語と英語の比較の話題が多く、讃美歌はドイツ語から英語に訳され、さらに英語から日本語に訳されたものがあり、途中で誤訳された個所があるという話などをしていた。
この先生も「偉大なる暗闇」の教え子だったかもしれません。 ⇒
★旧制高校出身者の人たちの話をきくと、旧制高校はドイツ語を第二外国語に選んだ場合がいちばん難度が高かったらしい。ところが第一次大戦でのドイツ敗戦以降、旧制高校ドイツ語選択で帝国大学を出た官僚たちの立場が弱まる。ドイツでヒトラーが台頭した当時、日本では
革新官僚と呼ばれる人たちが発言力を増したが、その多くは旧制高校時代ドイツ語を第二外国語に選んだ人たちだったらしい。
そして、最後に讃美歌を先生のピアノ伴奏で1曲歌って授業はオシマイというパターンでした。
この先生、髭剃りの剃刀キズからバイキンが入りリンパ腺を腫らしたということで二学期早々くらいから休みとなり、その後は学年末まで音楽の授業は自習だったように記憶しています。
TOKUSABUROさんは二年生からは美術を選択した。美術の先生はよその高校を定年退職し非常勤講師をしていた60代の先生。革ジャンで750CCのバイクで通ってきていた。
一方、2年生から新たに音楽を担当したのは音楽大学を出たものの気に入った就職先がなく、夜はピアノ・バーで演奏している先生だと、2年生から音楽を専攻した友人から聞きました。
音楽の授業は、生徒が自分の好きな曲の楽譜を持ち込み、先生のピアノ伴奏に合わせ独唱するというもの。その独唱が試験も兼ねて学年点になったそうです。皆ビートルズの曲なんぞをがなり立てたらしい。
高見沢や桜井は、おそらく音楽を選択したと思う。
ピアノ伴奏のレッド・ツェッペリンは結構ムズカシそう。何を歌ったのでしょうね?
[9回]
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