映画やテレビのロケ地、取り壊された建物、あの場所には何があったか、誰も価値を見出さないお宝グッズなどを紹介します。★拍手コメントはブログ管理人TOKUSABUROは拝見出来ますが、お返事が出来ません。なるべく記事下のコメント欄(CM)をご利用ください。匿名、URLなしでもコメント出来ます。(TOKUSABURO宛メールは、メールフォーム欄から送信してください)
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東宝映画「ニッポン無責任野郎」(1962年)
東京會舘で結婚披露宴を行い新婚旅行に旅立つ植木等と団令子。
道路正面は東京都議会図書館
東京会館となりの富士ビル角を曲がったところで自動車を止め下りてしまう植木等。
見送ってくれた人たちの様子をうかがうと、この後、団令子と船橋ヘルスセンターへ向かいます。
東京會舘はこの後改築されましたが、そのビルも富士ビルも解体され、現在、新しいビルが建築中です。
場面は飛びますが、外人テナー・サックス、ゲーリー・ゲーブルが出演するジャズ喫茶
渋谷にあった喫茶店「白鳥」と「大松鮨」。
喫茶店「白鳥」はセンター街にあり、おぼえています(渋谷区宇田川町25-6)。
1975年(昭和50年)発行「The 東京」(読売新聞社)では、すでに「ゲーム白鳥」となっていて大松鮨本店もまだ残っています。
1997年の住宅地図では「パチンコ白鳥」となっていて、大松鮨の場所はロッテリア。サックス走者ゲーリー・ゲーブル(ジェリー伊藤)が出演したジャズ喫茶の場所(渋谷区宇田川町25-2)は「ルノアール」が入る宇田川町プリンスビルとなっています。
昭和のサラリーマン映画では、屋上ロケーション撮影がよく行われています。
なぜかというと、晴天の日の屋上ロケーション撮影なら明るいし、
付近のオフィス街の風景を背景に使えるから。
屋上から飛んできたバレーボールを外付け階段で補給した植木等さん、
そのボールを道路に向け放ってしまいます。
バレーボールが落ちていく道路。
下を歩く歩行者は二人とも日傘を差しています。
なぜでしょう?
答えは…屋上からバレーボールが落ちてきたら危ないから。
最近の若い人たちは、インチキジャーナリズムが面白おかしく書くので、
昭和というのはとてつもない時代だったと思っているのではないかと気になります。
大和証券本社ビルは、当時の建築基準法いっぱいの9階建。
9階建のビル屋上から道路にバレーボールが落下したら、35メートルくらいの高さがあります。
万が一、通行人役の人に当たったら危ないから日傘を持たせ、
(おそらく通行人役は新米助監督あたり)落ちていくボールもゆらゆらしているので、
空気を抜いているか、ビニールボールで撮影したはずです。
幾らなんでも、ボール落下防止のネットもない屋上でバレーボールだなんて、
そんな危ない真似は、昭和の頃でもやりませんでした。ゼッタイに真似をしてはいけません。
「ニッポン無責任時代」冒頭、葬儀に参列した氏家社長(ハナ肇)に、
平均(植木等)が近づく場面。
青山葬儀所でのロケーション撮影。
ハナ肇さんの右後ろにいる男性…東宝の俳優さんだったのでしょうか?
当時のほかの東宝映画にも通行人役などで出演されています。
テレビコマーシャルや広告写真にも登場されていましたね。
追記
ブログ読者の方からお教えいただきました。
吉頂寺晃さんとおっしゃる俳優さんだそうです。
総天然色 60年代東宝俳優名鑑
http://www.ogikubo-toho.com/haiyuu.html
青山斎場は室内斎場です。下の写真、正面が受付になります。
ニュースで有名人の葬儀場面は、普通この受付で撮影しています。
ところが映画では、屋外で受付を行い、屋外で焼香をしています。
なぜでしょう?
最近、子供の頃から家庭用VTRカメラが身近にある環境で育った世代が40代になりつつあり、
どうも、そのあたりがピンと来ないようです。
答えは、室内ロケーション撮影をしたら「暗い」からです。
この当時の映画フィルムは感度が低く、まだISO(ASA)100もなかったのです。
富士写真フィルムのサイトをみると、ISO100の映画フィルムを初めて提供したのは、
1969年(昭和44年)大映作品「眠狂四郎卍斬り」だそうです。
最近のデジタルカメラは、携帯電話の動画撮影でもISO1600程度が使えますが、
デジカメの感度をISO100に設定してごらんなさい。
夕方、日没前に補助光なしでは撮影出来なくなります。
さらには、当時、ロケーション撮影で補助光を使うとなれば、
探光灯みたいな大型照明をロケ地に持ち込まねばならず、大変なことだったのです。
夜ロケーション撮影をするのは大変なので、逆に昼間のうちに青いレンズフィルターを被せて、
夜に見せかけて撮影する方法も多く見られます。
疑似夜景(疑夜:アメリカの夜)と呼ばれた手法です。
先日「エレキの若大将」だったかを見ていたら、若大将の歌唱シーンを疑夜で撮影していました。
古澤憲吾監督は、この疑夜が嫌いだったらしく、
喜劇ものの娯楽映画では、夜間ロケーション撮影でも大型投光機を使っています。
ただし、古澤憲吾監督も「青島要塞爆撃命令」では疑夜を使ってました。
なお、富士写真フィルムは今年3月で映画用フィルムの生産は終えたそうです。
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撮影用/上映用映画フィルム 生産終了のお知らせ
http://fujifilm.jp/information/articlead_0204.html
2013年4月2日
富士フイルム株式会社
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映画「ニッポン無責任時代」の最終場面は、横浜プリンスホテルの屋外披露宴シーンです。
この場所は、社長シリーズや若大将シリーズでも使われています。
しかし、昭和40年代になると映画ロケは行われなくなります。
理由は容易に推察出来ます。
磯子駅の海側が埋め立てられ、高さ60メートルの崖上にある横浜プリンスホテル庭園から撮影しても、遠くの海の手前に工場や発電所の風景が映るようになってしまったからです。
東京オリンピックの翌年、昭和40年という年は戦後20年に当たりますが、戦後日本経済史の上でも、この昭和39年~40年は大きな転機になります。
昭和39年のオリンピックに向け高速道路整備など公共事業が続きましたが、翌昭和40年はその反動で「40年不況」という不景気になります。山一證券への日銀特融が行われたのも、この時です。
当時の日本は、まだ資本ストックが薄くケインズ経済学の有効需要政策が効き目があったのですね。
東京オリンピックの時、実務を取り仕切った副知事は鈴木俊一さん。昭和45年の大阪万博の事務総長になり、昭和54年に都知事になります。多摩モノレール建設や臨海副都心の世界都市博覧会開催を推進しますが、東京五輪の成功体験から生涯ケインジアンだったと思います。
東海道新幹線は世界銀行の融資で作られたと良くいわれますが、昭和39年は戦後アメリカから日本への有償援助が完了した年でもありました。余剰農産物協定もこの年で終わり、学校給食の脱脂粉乳も米国産のものは、この年度限りとなります。
「40年不況」打開のため、昭和40年11月に政府は戦後初の赤字国債発行を決定し、国会審議を経て翌年1月に2590億円の赤字国債が発行されました。
「東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン」では12月に発売が予定されている「日本一のゴリガン男」の「ゴリガン」は、40年不況時に盛んに使われた言葉「(経営)合理化案」をもじり青島幸男が作った造語です。
横浜プリンスホテルの跡地は「ブリリアシティ横浜磯子」というマンションが出来ました。
現在も、まだ分譲中のようです。
http://www.yokohama-peak.jp/?iad=adwords
横浜プリンスホテル
http://web1.nazca.co.jp/fuk200260/page003.html
横浜プリンスホテル跡地、マンションなど首都圏最大規模の開発起工/神奈川
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110190032/
ラストシーン結婚披露宴の前段、石橋エータローが女装して藤山陽子の身代わりとなり、お見合いをぶち壊す場面も、同じく横浜プリンスホテルがロケ地に使われています。同じ日に、ふたつの場面をロケーション撮影したと思います。
荻窪東宝さんが「聖地巡礼」で取り上げている通り、山手線の渋谷駅と恵比寿駅の間に架かる猿楽橋のたもとです。
向こうに見える建物の屋根に「大原簿記学校」の看板。…だけど、なんで大原簿記学校なのに「週刊大衆」なのでしょう?
ここは昭和印刷という印刷工場だったのです。おそらく、印刷の仕事を発注してくれるお得意先の看板広告を掲げていたのでしょうね。
昭和印刷は昭和の終わり頃までありましたが、その後、この一帯ごと区画整理され現在は渋谷清掃工場が建っています。
ところで、東京都23区には清掃工場が幾つあるでしょう?
現在、建替工事で2つが休止していますが、21の清掃工場があります。
大田区、世田谷区、江東区、練馬区の4区には2つの清掃工場があり、千代田区、新宿区、文京区、台東区、荒川区、中野区の6区には清掃工場はありません。
各区にそれぞれ清掃工場を作る計画だったのですが、リサイクル化などでゴミの量が減り、中野区に予定していた清掃工場の建設が中止になって以降、清掃工場の建設はストップしているようです。
「東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン VOL.1」でも参考文献に列挙している「クレージー映画大全」(フィルムアート社 1997年)は、大変すばらしい本です。
絶版になっていてamazonのマーケットプレイスでも倍以上の値がついていますが、ぜひ復刊していただきたいものです。
しかしながら、どうしても一点気にかかることがあります。
32ページ。「ニッポン無責任時代」のタイアップ先がサッポロビールとなっている点です。
この映画、ビヤホールは「ASAHI BEER HALL」の文字が見えるし、ジョッキも当時の朝日麦酒のロゴマーク。
なぜか、ビール瓶は皆ラベルを隠して撮影していますが、黒田社長歓迎宴にはバヤリースオレンジ、三矢サイダーといった朝日麦酒の製品が並んでいます。
洋酒メーカー寿屋は、この映画の翌年昭和38年に映画の中の太平洋酒と同様にビールにも進出し、その際、社名も寿屋からサントリーへ改めます。
松任谷由実「中央フリーウェイ」の♪左はビール工場=サントリー武蔵野ビール工場は、この時に出来ました。
寿屋のビール業界進出を手助けしたのは、朝日麦酒山本為三郎社長でした。
この後のクレージーキャッツ映画の小道具でも、堂々とラベルを映して朝日麦酒が使われますし、昭和40年にはクレージーキャッツがサントリービールのテレビCMにも出演しています。
では「ニッポン無責任時代」のタイアップ先は、日本麦酒(当時のサッポロビール)ではなく朝日麦酒だったのでしょうか?
…いくら、朝日麦酒の山本為三郎社長が寿屋のビール業界進出を助けても、朝日麦酒がタイアップした東宝映画で、無料で寿屋の宣伝をすることは株主に対して説明がつかないでしょう。
おそらく、資金面でのタイアップは寿屋。そして、映画の中で麦酒などの飲料は朝日麦酒の製品を使った。しかし、翌年からビール販売で競合する予定の瓶ビールだけはラベルを隠して撮影したのではないかと思います。
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