かなり有名ですが、最近話題の
三菱自動車工業本社所在地は「西郷隆盛・勝海舟」の江戸開城会見が行われた薩摩藩江戸蔵屋敷跡地です。会見は慶応4年(1868年)3月13日と14日に行われました。
勝・西郷の会見が行われる僅か3か月前、慶応3年(1867年)12月25日、三田にあった薩摩藩江戸藩邸を江戸警護にあたっていた庄内藩新徴組らが焼き討ちした事件がありました。その時、三田の藩邸から蔵屋敷へ逃げてきた薩摩藩士が芝浜の漁民が漕ぐ舟に乗り沖合に待つ船に避難したと伝えられています。
薩摩藩は江戸屋敷も蔵屋敷も芝浜雑魚場の近所。芝浜の漁民たちにとっては薩摩藩はアウトレットサービスの得意先だったはずです。話が逸れますが大久保彦左衛門は現在の白金八芳苑の場所に住んでいたそうです。一心太助も実在の人物なら芝浜で魚を仕入れていたかもしれません。
江戸無血開城と言いますが、薩摩長州は上野彰義隊攻撃後、戊辰戦争の恨みから会津や越後長岡でホロコーストを行い、最後の出羽庄内藩に辿りつきます。会津や長岡での薩摩長州での残虐行為を聞き及んでいた出羽庄内藩は厳しい処分を覚悟しますが、予想外にも処分は最低限のものでした。明治になり旧庄内藩主酒井忠篤は軽い処分で済んだのは西郷隆盛の命令であったことを知ります。西郷隆盛は、処分が軽くてはどちらが勝者かわからぬという長州出身の前原一誠に 「敵となり味方となるも運命。一旦帰順した以上、兄弟も同じと心得よ」と諭したという話もあります。
年若い酒井忠篤は西郷隆盛に心酔し、ついには遥々東北から薩摩まで出掛け西郷隆盛の教えを受けます。この時の講義録が「南洲翁遺訓」です。
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