3月に入り、国立競技場の解体工事が始まりました。
かなり有名な話だが、向田邦子さんは1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック開会式
聖火点火の瞬間を、国立競技場の外から偶然見かけたと書いています。
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幸い伽里伽は、鳥も盗らず金魚も狙わず、結構可愛がられて、父との間もうまく行っていたが。飼い主の私が父と言い争いをして、家を出ることになってしまった。
猫を連れて入れるアパートを探して、不動産屋の車で青山あたりを回っていたら、開会式の時刻になった。日本中の人がテレビにかじりついているというのに、父と争い家を飛び出して部屋探しをしている人間もいる。不動産屋の車が青山の表通りから横丁へ曲った。こんなところにマンションがあるのかな、と思ったとたん、ゆきどまりになった横丁の真下に、国立競技場がひろがっていた。
「ここが日本一の特等席ですよ」
たいまつを掲げた選手が、たしかな足どりで聖火台を駈け上ってゆき、火がともるのを見ていたら、わけのわからない涙が溢れてきた。
オリンピックの感激なのか、三十年間の暮らしと別れて家を出る感傷なのか、自分でも判らなかった。
アパートは霞町にみつかった。
ひと月後、母に引っぱられるよりにして、父が部屋を見にきた。伽里伽は、うれしいのだろう、怒ったように烈しく啼き。父の足にからだをすりつけてぐるぐる回っていた。父は何もいわず伽里伽の背を撫でていた。
あれから七年で父は亡くなったが。伽里伽は今も元気である。華奢なからだは肥えふとり、長かった首も猪首にみえる。キリンの子はその名の通り羅漢さまになってしまった。この猫も父の形見のひとつである。
(東京新聞/1978・6・8)
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「眠る盃」収録「伽里伽」より
1964年の東京オリンピックから十数年経った後の向田邦子さんの回想なので、記憶の中の位置関係など多少曖昧になっているかも知れませんが、道路上から聖火台が見えたというのならば、鳩森八幡神社南側の道路沿いやや東側近辺しかないはずです。
JR中央線の車内からだと、千駄ヶ谷駅を出てすぐ、外苑西通り上ガードのところから国立競技場の聖火台が一瞬見えましたが、すぐ横の四谷第六小学校横の道路からは、神宮プールの建物があるので聖火台は見えませんでした。
「ゆきどまりになった横丁の真下に、国立競技場がひろがっていた」。
ここがムズカシイのですよね。
現在の「HILLS AOI」か「テラス外苑」の横あたりが「ゆきどまり」と言えなくもないが、そもそも明治公園横観音橋から鳩森八幡神社方向へ向かう道は二本とも鳩森八幡神社方向へ向けて一方通行なのです。当時は対面通行だったのかも知れませんけれど。
向田さんの記憶通りだったとすれば、下の写真の赤いカーソルの辺りだったはずです。
1970年当時の国立競技場と東京体育館。
東京体育館南側の建物は、1973年の地図では角が竹中工務店社員寮、隣が第一生命社宅となっています。
その奥の二棟は千駄ヶ谷清和寮と千駄ヶ谷アパートメント清和苑となっています。
1970年1月公開の映画「ブラボー若大将!」の明治公園でのロケシーン。
今年1月にNHK教育テレビ(今はEテレというのかな?)で放送した「建築は知っている」で、国立競技場聖火台から撮影した光景。
近年は明治公園西側にビルが建っているので道路から聖火台が見えることはありませんでした。
「アパートは霞町にみつかった」という住まいは、現在の港区西麻布3-17-36「霞町マンション」というのも、かなり有名な話です。
この後、1970年に当時の超豪華マンション「南青山第一マンションズ」に移ります。
向田邦子さん独特の謙遜癖から自宅を出て「アパートは霞町にみつかった」などと書いているが、1970年のタレント名鑑を見ると、当時の若手女性アイドルタレント岡崎友紀が「霞町マンション」4階に住んでいます。
それよりも6年も前、1964年に「霞町マンション」の一室を借りたということは、向田邦子さんは当時すでにかなりの収入があり高級マンションに入居したということでしょう。
現在、千駄ヶ谷清和寮と千駄ヶ谷アパートメント清和苑の跡地は、フレンシア外苑西という高級賃貸マンションになっています。
千駄ヶ谷で向田さんが内覧した物件は、千駄ヶ谷清和寮か千駄ヶ谷アパートメント清和苑だったのではないでしょうか。
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